おいしくてつよくなる

さあ あの月をめがけて

Endless SHOCK 2019 初見感想

※2019年観劇時の感想です




彼は満開に咲いた桜の木の下で、この世で一番美しい死体になっていた。

 

彼にあんなにも桜が似合うとは知らなかった。KinKi Kidsにおいて桜というと、光一さんではなくまっさきに相方である剛さんを連想する。いや厳密には桜の下で横たわっていたのはコウイチであり堂本光一ではないのだけど。わかっているんだけど、名前の音の響きってやっぱり重要だし、演者と役の名前が一緒、って初見の私が知っていた数少ない情報だったこともあり、余計に惑わされている。

 

自分が死んだことに気づかないなんてことがあるのだろうか。いわゆる幽霊、地縛霊とはそういうものなのか。そもそも幽霊には幽霊だという自覚がないのか。気づいてしまったら最後、自分が消えてしまうことを本能的に察し、気づいてはいけないと思ったのか?

 

 

私は堂本光一という人間を、無機質に捉えていたのかもしれない。Endless SHOCK、なんというか狂気の沙汰であった。彼の狂気を目の当たりにした。

メディアでは写真のカットにしてもコメントにしても、誰かが都合よく切り取ったかもしれない表情や要素が際立ってしまうし、メディアを通すとこちらに伝わる彼の狂気もそこまで強烈なものではなくなるので、あてられることはない(とも言い切れないけど)。

とてもとても失礼を承知で言うけど(言うな)、あるドラマで彼の演技を見たとき、正直なところ、しつこいな、と思ってしまった。何本も見てないけど。いや一周まわって(?)好きなんだけど。ていうか見てれば慣れるし。でも何かがひっかかって楽に見れなくて、そしてそれが彼の持ち味なんだろうけど、と勝手に納得させていた。だがそのくささ、くどさの正体はここにあった。彼の演技はドラマなどのためのものではなく、この舞台のためのもの。ショーのための演技だったのだ。

1年のうち数ヵ月をこの作品のために費やしている。彼の中に占めるこのEndless SHOCKという作品の割合はどれほどのものなんだろう。

 

 

堂本光一さんは優しい人だと思う。

優しいというか、行き届いた人。気を遣える人。あらゆる立場の人に自分の発言が届き、影響を及ぼしかねないということをわかっている。人前に立つ仕事をしているという自覚を感じる。アイドルってこうあるべきだよなあ、と勝手にずっと信用している。時折、おいこらそれはどうなの、と感じる発言もなくはないけど、正直で誠実であろうとする姿勢は好感のほうが大きい。そしてふとしたときに、茶化しながら照れながらの、彼の気どらない優しさが身に染みることがある。なんであんなにキラキラした人が、生きづらさを感じている人の孤独とか、心の薄暗い部分まで寄り添うことができるんだろう。ファンの不安を取り除くような、ファンが欲しい言葉をくれるんだろう。自他ともに認める不器用で、口下手であっても。いつだって、言わされてる感なんてない自分の言葉で話してくれるから。

もちろん私が知ってるのはメディアを通した光一さんなんだけど、悪意がつけこむ要素をできる限り排除しようとしてることは伝わる。「誤解を招くかもしれないけど…」とか「こういうこと言ったらまた~って書かれるんちゃう?」とか言わせてしまうのは残念だし(まあ今や本人もあるあるネタで楽しんでるのでは?とも思うが) 何にせよ「発言に気を遣ってます」というアピールをしてくれていることで救われる命があります。たとえ姿勢だけであっても救われる命があります(何?)

 

 

コウイチは「天才」という孤独を背負って生きている。

作品を手掛け演じている堂本光一もきっとまた、天才の苦しみがわかる人間であり、才能と熱意と周囲との折り合いとの葛藤を、多少なりとも経験してきたのだろうなぁと感じた。この作品がここまで仕上がるのに、一体どれほどの苦労を経て、またどれほどステージに立つことの幸せを噛みしめて生きてきたんだろう。この仕事をすることで彼が感じてきたかもしれない生きづらさ、ままならなさよりも、ステージに立ってよかった、幸せだ、という思いが強ければいい。勝手な願いだ。

 

 コウイチは劇中劇の一幕で銃口を自らのこめかみに突きつけ、発砲する。「一幕のラスト、暗すぎないか?」と仲間にまで指摘されるほど明るくない終わり方。センターで踊っていた人間が自死を遂げるなんて結末、たしかに明るくないが、コウイチは二幕がハッピーエンドだからいいのだと取り合わない。バッドエンドの一幕とハッピーエンドの二幕でバランスを取っているようだ。

だがその予定調和のバランスは崩れる。

迎える二幕ジャパネスク、本来であればハッピーエンドのはずが、予定されていなかった死、舞台中の”事故”により、コウイチを本当の死に至らしめてしまう。

コウイチの死は、誰のせいか?

コウイチには、死ぬ覚悟があったのか?

コウイチは幽霊になった。コウイチは劇場に戻ってきた。

 

劇中に完全悪な人間はいないと思っている。ウチだって自らの行いを悔い、苦しみ続ける。まあ真剣を出した時点で、意図的じゃなくても誰かを傷つけ死に至らしめる可能性があるって気づいてなきゃだめだったんだけど。

 

Onの先に何があったか?観客としてOnの先に見たものはコウイチの死だ。コウイチという一人の天才、狂人の死。コウイチは死ななければならなかったのか?誰もコウイチの”暴走”を止めることはできなかったのか?何にせよ死んだら終わりなんだよ、死んだらもう生きられないんだよ。ショーのためにステージに立つことだってできないんだよ。

 

初見・一度の観劇ではとても情報量を消化し切れていないし、一生消化できなくてもいいとすら思っている。

Endless SHOCKとは悲劇なのか。コウイチという一人の天才の死を描いた物語だとすれば悲劇でしかないが、人が生きて死ぬことが悲劇なのであればすべての人生が悲劇になってしまう。死に際ばかりが美化されても仕方ない。

今日もコウイチは、ステージの上で死を繰り返す。

死ってなんというかわかりやすい節目だけど、コウイチが死ななくて済む世界があるなら見てみたい。onの先に明るい景色が見える日が来るのなら。

 

今年はきっと、満開に咲く桜を見たら泣いてしまう。

 

2019.2.4

Endless SHOCK 初観劇に寄せて

 

 

 

 

 

【追記・補足 】(2020.2.14)

上記は、去年の初日にご縁をいただいて、初SHOCKをキメてきたときの殴り書きに加筆修正したものです。そのため、その後のわたしのツイートと矛盾してることもあるかもしれませんがご容赦ください(そもそも誰も見てない)。

 

2020、今年のSHOCKにおいて大桜の演出が変更されたということで、もうあの死体(という表現は即物的すぎるけど)を見ることはないんだな…という思いで(?)丸々1年あたためてしまったものを公開しました。

 

自分で読み返してもあちゃーと思うのは、

・”コウイチの死”という要素に囚われすぎている

・演者である堂本光一との混同が激しい

・得体の知れない人物像:コウイチへの畏怖を「狂気」という一言で片付けている(シェイクスピアに引っ張られすぎ?)

 

でも未だに、なんだかんだそのへんを楽しんでいる自分がいます。ただ去年の大阪公演ではだいぶ印象が変わって、コウイチはずいぶん穏やかな表情をしていたんだなぁと気づいた。コウイチは人間なんだよなあと実感した。

 

最初は、光一さんが作り上げたこの作品、どんな伏線も取りこぼすものか!といっぱいいっぱいで。物語の筋自体はシンプルだしわかりやすい(2019はとくにわかりやすくなったと評判だったし、私自身も後から過去の映像を観ても感じた)から、観劇を重ねるにつれ見所やショー要素を楽しむ余裕が生まれた。毎年同じ演目だからこそ、演出変更をも辞さない姿勢、クスッと笑えるアドリブ部分など、何度観ても観客を飽きさせない、また観たいと思えるような、作品自体のエンターテインメント性。SHOCKすごい。光一さんすごい。もちろん彼一人の力ではないけど、座長という立場であれだけ名前を前面に出されて。ジャニーさんが亡くなって、今年からはさらに背負うものが大きくなっているはずだ。気負わず、なんて外野が言えることじゃないし、ファンにできるのは全公演を無事に終えることを祈るのみ。どうか千秋楽まで無事に、走り抜けてほしい。

 

 


帝劇の宙を軽やかに舞う姿。確かに彼の背中には羽根がある。昨年夏の「僕の背中には羽根があります」から始まるコメントは、「これからもこの世界で生きていく」というファンへ向けた宣言であると同時に、「この羽根を大事にこれからも育て」ていかなければならないのだと、自身に言い聞かせるためのものであったのだろう。

 

光一さんがエンターテインメントに夢と幸せを見出だし続ける限り、SHOCKはきっと進化し続ける。

Show Must Go On 

僕らの夢は終わらない。

 

 

 

最後は拙作短歌で。お粗末さまでした。

 

今日もまたステージの上に立っている背中の羽根を休める日まで